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◈ 三國遺事 (삼국유사) ◈

◇ 三國遺事卷第一 ◇

해설목차  1권 2권  3권  4권  5권  고려 충렬왕 때
일연
1
三國遺事卷第一
2
紀異卷第一
3
叙曰: 大抵古之聖人, 方其禮樂興邦, 仁義設敎, 則怪力亂神, 在所不語. 然而帝王之將興也, 膺符命‧受圖籙, 必有以異於人者, 然後能乘大變, 握大器, 成大業也. 故<河>出圖‧<洛>出書而聖人作; 以至虹繞<神母>而誕<羲>; 龍感<女登>而生<炎>; <皇娥>遊<窮桑>之野, 有神童自稱<白帝>子, 交通而生<小昊>; <簡狄>呑卵而生<契>; <姜嫄>履跡而生<弃>; 胎孕十四月而生<堯>; 龍交大澤而生<沛公>. 自此而降, 豈可殫記! 然則三國之始祖, 皆發乎神異, 何足怪哉! 此神異之所以漸諸篇也, 意在斯焉.
 

1. 古朝鮮(王儉朝鮮)

1
《魏書》云: 「乃往二千載有<壇君王儉>, 立都<阿斯達>(《經》云<無葉山>, 亦云<白岳>, 在<白州>地, 或云在<開城>東, 今<白岳宮>是), 開國號<朝鮮>, 與<高>同時. 古記云: 「昔有<桓國>(謂<帝釋>也)庶子<桓雄>, 數意天下, 貪求人世, 父知子意, 下視<三危太伯>可以弘益人間, 乃授天符印三箇, 遣往理之. <雄>率徒三千, 降於<太伯山>頂(卽<太伯>今<妙香山>)神壇樹下, 謂之<神市>, 是謂<桓雄天王>也. 將風伯‧雨師‧雲師, 而主穀‧主命‧主病‧主刑‧主善惡, 凡主人間三百六十餘事, 在世理化. 時有一熊‧一虎, 同穴而居, 常祈于神<雄>, 願化爲人. 時, 神遺靈艾一炷‧蒜二十枚曰: 「爾輩食之, 不見日光百日 便得人形.」 熊‧虎得而食之忌三七日, 熊得女身, 虎不能忌而不得人身. 熊女者無與爲婚, 故每於壇樹下, 呪願有孕, <雄>乃假化而婚之, 孕生子, 號曰<壇君王儉>. 以<唐高>卽位五十年庚寅(<唐高>卽位元年戊辰, 則五十年丁巳, 非庚寅也, 疑其未實), 都<平壤城>(今<西京>), 始稱<朝鮮>. 又移都於<白岳山><阿斯達>, 又名<弓(一作方)忽山>, 又<今彌達>, 御國一千五百年. <周><虎王>卽位己卯, 封<箕子>於<朝鮮>, <壇君>乃移於<藏唐京>, 後還隱於<阿斯達>爲山神, 壽一千九百八歲. 《唐‧裵矩傳》云: 「<高麗>本<孤竹國>(今<海州>), <周>以封<箕子>爲<朝鮮>. <漢>分置三郡, 謂<玄菟>‧<樂浪>‧<帶方>(北帶方).」《通典》亦同此說.(《漢書》則<眞>‧<臨>‧<樂>‧<玄>四郡, 今云三郡, 名又不同, 何耶?)
 

2. 魏滿朝鮮

1
《前漢‧朝鮮傳》云: 「自始<燕>時, 常畧得<眞番>‧<朝鮮>(<師古>曰, <戰國>時(<燕>)因始略得此地也), 爲置吏築障. <秦>滅<燕>, 屬<遼東>外徼. <漢>興爲遠難守, 復修<遼東>故塞, 至<浿水>爲界(<師古>曰, <浿>在<樂浪郡>), 屬<燕>. <燕>王<盧綰>反入<匈奴>, <燕>人<魏滿>亡命, 聚黨千餘人, 東走出塞, 渡<浿水>, 居<秦>故空地上下障, 稍役屬<眞番>‧<朝鮮>蠻夷及故<燕>‧<齊>亡命者王之, 都<王儉>(<李>曰, 地名; <臣瓚>曰, <王儉城>在<樂浪郡><浿水>之東), 以兵威侵降其旁小邑, <眞番>‧<臨屯>皆來服屬, 方數千里. 傳子至孫<右渠>(<師古>曰, 孫名<右渠>), <眞番>‧<辰國>欲上書見天子, 雍閼不通.(<師古>曰, <辰>謂<辰韓>也.) <元封>二年, <漢>使<涉何>諭<右渠>, 終不肯奉詔. <何>去至界, 臨<浿水>, 使馭刺殺送<何>者<朝鮮>裨王<長>(<師古>曰, 送<何>者名也), 卽渡水, 馳入塞遂歸報, 天子拜<何>爲<遼東>之部都尉. <朝鮮>怨<何>, 襲攻殺<何>. 天子遣<樓舡將軍><楊僕>, 從<齊>浮<渤海>, 兵五萬; <左將軍><筍彘>出<遼>, 討<右渠>, <右渠>發兵距嶮. <樓舡將軍>將<齊>七千人, 先到<王儉>, <右渠>城守, 規知<樓舡>軍小, 卽出擊<樓舡>, <樓舡>敗走, <僕>失衆遁山中獲免. <左將軍>擊<朝鮮><浿水>西軍, 未能破. 天子爲兩將未有利, 乃使<衛山>, 因兵威往諭<右渠>, <右渠>請降, 遣太子獻馬. 人衆萬餘持兵, 方渡<浿水>, 使者及<左將軍>疑其爲變, 謂太子「已服, 宜毋持兵」, 太子亦疑使者詐之, 遂不渡<浿水>, 復引歸. 報天子誅<山>. <左將軍>破<浿水>上軍, 迺前至城下, 圍其西北, <樓舡>亦往會居城南. <右渠>堅守, 數月未能下. 天子以久不能決, 使故<濟南太守><公孫遂>往正之, 有便宜將以從事. <遂>至, 縛<樓舡將軍>, 並其軍與<左將軍>, 急擊<朝鮮>. <朝鮮>相<路人>‧相<韓陶>‧<尼谿>相<參>‧將軍<王啖>(<師古>曰, <尼谿>地名, 四人也), 相與謀欲降, 王不肯之, <陶>‧<唊>‧<路人>, 皆亡降<漢>, <路人>道死. <元封>三年夏, <尼谿>相<參>, 使人殺王<右渠>來降, <王儉城>未下, 故<右渠>之大臣<成己>又反. <左將軍>使<右渠>子<長>‧<路人>子<最>, 告諭其民, 謀殺<成己>, 故遂定<朝鮮>, 爲<眞番>‧<臨屯>‧<樂浪>‧<玄菟>四郡.
 

3. 馬韓

1
《魏志》云: 「<魏滿>擊<朝鮮>, 王<準>率宮人左右, 越海而南至<韓>地, 開國號<馬韓>.」 <甄萱>上<太祖>書云: 「昔<馬韓>先起, <赫世>勃興, 於是<百濟>開國於<金馬山>.」 <崔致遠>云: 「<馬韓>, <麗>也; <辰韓>, <羅>也(據《本紀》, 則<羅>先起甲子, <麗>後起甲申, 而此云者, 以王<準>言之耳. 以此知<東明>之起, 已幷<馬韓>而因之矣. 故稱<麗>爲<馬韓>. 今人或認<金馬山>, 以<馬韓>爲<百濟>者, 蓋誤濫也. <麗>地自有<邑山>, 故名<馬韓>也); 四<夷>, <九夷>‧<九韓>‧<穢>‧<貊>.」《周禮‧職方氏》「掌四<夷>‧九<貊>」者, <東夷>之種卽<九夷>也.《三國史》云: 「<溟州>, 古<穢國>, 野人耕田得<穢王>印, 獻之.」 又「<春州>古<牛首州>, 古<貊國>.」 又「或云, 今<朔州>是<貊國>, 或<平壤城>爲<貊國>.」《淮南子》注云: 「東方之<夷>九種.」《論語‧正義》云: 「<九夷>者; 一<玄菟>, 二<樂浪>, 三<高麗>, 四<滿飾>, 五<鳧臾>, 六<素家>, 七<東屠>, 八<倭人>, 九<天鄙>.」《海東安弘記》云: 「<九韓>者; 一<日本>, 二<中華>, 三<吳越>, 四<乇羅>, 五<鷹遊>, 六<靺鞨>, 七<丹國>, 八<女眞>, 九<穢貊>.」
 

4. 二府

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《前漢書》, <昭帝><始元>五年己亥, 置二外府, 謂<朝鮮>舊地<平那>及<玄菟郡>等, 爲<平州都督府>, <臨屯>‧<樂浪>等兩郡之地, 置<東部都尉府>.(私曰,《朝鮮傳》則<眞番>‧<玄菟>‧<臨屯>‧<樂浪>等四, 今有<平那>無<眞番>, 蓋一地二名也.)
 

5. 七十二國

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《通典》云: 「<朝鮮>之遺民, 分爲七十餘國, 皆地方百里.」《後漢書》云: 「<西漢>以<朝鮮>舊地, 初置爲四郡, 後置二府, 法令漸煩, 分爲七十八國, 各萬戶.」(<馬韓>在西, 有五十四小邑, 皆稱國; <辰韓>在東, 有十二小邑稱國; <卞韓>在南, 有十二小邑, 各稱國.)
 

6. 樂浪國

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<前漢>時始置<樂浪郡>, <應邵>曰「故<朝鮮>國」也.《新唐書》注云: 「<平壤城>, 古<漢>之<樂浪郡>也.」《國史》云: 「<赫居世>三十年, <樂浪>人來投.」 又「第三<弩禮王>四年, <高麗>第三<無恤王>伐<樂浪>滅之, 其國人與<帶方>(北帶方)投于<羅>.」 又「<無恤王>二十七年, <光虎帝>遣使伐<樂浪>, 取其地爲郡縣, <薩水>已南屬<漢>.」(據上諸文, <樂浪>卽<平壤城>, 宜矣. 或云<樂浪>, <中頭山>下<靺鞨>之界, <薩水>今<大同江>也, 未詳孰是.) 又<百濟><溫祚>之言, 曰「東有<樂浪>, 北有<靺鞨>」, 則殆古<漢>時<樂浪郡>之屬縣之地也. <新羅>人亦以稱<樂浪>, 故今本朝亦因之而稱<樂浪郡夫人>, 又<太祖>降女於<金傅>, 亦曰<樂浪公主>.
 

7. 北帶方

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<北帶方>, 本<竹覃城>. <新羅><弩禮王>四年, <帶方>人與<樂浪>人投于<羅>.(此皆<前漢>所置二郡名, 其後僣稱國, 今來降.)
 

8. 南帶方

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<曹魏>時始置<南帶方郡>(今<南原府>)故云, <帶方>之南海水千里, 曰<瀚海>.(<後漢><建安>中, 以<馬韓>南荒地爲<帶方郡>, <倭><韓>遂屬, 是也.)
 

9. 靺鞨 渤海

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靺鞨(一作勿吉) 渤海
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《通典》云: 「<渤海>, 本<粟末靺鞨>, 至其酋<祚榮>立國, 自號<震旦>, <先天>中(<玄宗>王子)始去<靺鞨>號, 專稱<渤海>. <開元>七年(己未)<祚榮>死, 諡爲<高王>. 世子襲立, <明皇>賜典冊襲王, 私改年號, 遂爲海東盛國, 地有五京‧十五府‧六十二州. <後唐><天成>初, <契丹>攻破之, 其後爲<丹>所制.(《三國史》云: 「<儀鳳>三年, <高宗>戊寅, <高麗>殘孽類聚, 北依<太伯山>下, 國號<渤海>. <開元>二十年間, <明皇>遣將討之; 又<聖德王>三十二年, <玄宗>甲戌, <渤海靺鞨>越海侵<唐>之<登州>, <玄宗>討之.」 又《新羅古記》云: 「<高麗>舊將<祚榮>姓<大>氏, 聚殘兵, 立國於<大伯山>南, 國號<渤海>.」 按上諸文, <渤海>乃<靺鞨>之別種, 但開合不同而已. 按《指掌圖》, <渤海>在<長城>東北角外.) <賈耽>《郡國志》云: 「<渤海國>之<鴨淥>‧<南海>‧<扶餘>‧<橻城>四府, 並是<高麗>舊地也. 自<新羅><泉井郡>(《地理志》, <朔州>領縣有<泉井郡>, 今<湧州>)至<橻城府>, 三十九驛.」 又《三國史》云: 「<百濟>末年, <渤海靺鞨>‧<新羅>分<百濟>地.」(據此, 則<渤海>又分爲二國也.) <羅>人云: 「北有<靺鞨>, 南有<倭>人, 西有<百濟>, 是國之害也.」 又「<靺鞨>地接<阿瑟羅州>」. 又《東明記》云: 「<卒本城>連<靺鞨>(或云今<東眞>). <羅>第六<祇麻王>十四年(乙丑), <靺鞨>兵大入北境, 襲<大嶺柵>, 過<泥河>.」《後魏書》<靺鞨>作<勿吉>;《指掌圖》云: 「<挹屢>與<勿吉>皆<肅愼>也.」 <黑水>‧<沃沮>, 按<東坡>《指掌圖》, <辰韓>之北, 有南北<黑水>. 按<東明帝>立十年滅<北沃沮>‧<溫祚王>四十二年<南沃沮>二十餘家來投‧<新羅>又<赫居世>五十三年<東沃沮>來獻良馬, 則又有<東沃沮>矣.《指掌圖》, <黑水>在<長城>北, <沃沮>在<長城>南.
 

10. 伊西國

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<弩禮王>十四年, <伊西國>人來攻<金城>. 按<雲門寺>古傳諸寺《納田記》云「<貞觀>六年壬辰, <伊西郡><今郚村><零味寺>納田」, 則<今郚村>今<淸道>地, 卽<淸道郡>古<伊西郡>.
 

11. 五伽耶

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五伽耶(按《駕洛記贊》云, 垂一紫纓, 下六圓卵, 五歸各邑, 一在茲城. 則一爲<首露王>, 餘五各爲五<伽耶>之主, <金官>不入五數當矣. 而本朝《史略》, 並數<金官>而濫記<昌寧>, 誤.)
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<阿羅(一作耶)伽耶>(今<咸安>), <古寧伽耶>(今<咸寧>), <大伽耶>(今<高靈>), <星山伽耶>(今<京山>, 一云<碧珍>), <小伽耶>(今<固城>). 又本朝《史略》云: 「<太祖><天福>五年庚子, 改五<伽耶>名; 一<金官>(爲<金海府>), 二<古寧>(爲<加利縣>), 三<非火>(今<昌寧>, 恐<高靈>之訛), 餘二<阿羅>‧<星山>(同前, <星山>或作<碧伽耶>).
 

12. 北扶餘

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古記云: 「《前漢書》<宣帝><神爵>三年壬戌四月八日, 天帝降于<訖升骨城>(在<大遼><醫州>界), 乘五龍車, 立都稱王, 國號<北扶餘>, 自稱名<解慕漱>, 生子名<扶婁>, 以<解>爲氏焉. 王後因上帝之命, 移都于<東扶餘>, <東明帝>繼<北扶餘>而興, 立都于<卒本州>, 爲<卒本扶餘>, 卽<高句麗>之始.」(見下.)
 

13. 東扶餘

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<北扶餘>王<解夫婁>之相<阿蘭弗>, 夢天帝降而謂曰: 「將使吾子孫立國於此, 汝其避之(謂<東明>將興之兆也), 東海之濱, 有地名<迦葉原>, 土壤膏腴, 宜立王都.」 <阿蘭弗>勸王移都於彼, 國號<東扶餘>. <夫婁>老無子, 一日祭山川求嗣, 所乘馬至<鯤淵>, 見大石相對淚流, 王怪之, 使人轉其石, 有小兒金色蛙形. 王喜曰: 「此乃天賚我令胤乎!」 乃收而養之, 名曰<金蛙>. 及其長, 爲太子, <夫婁>薨, <金蛙>嗣位爲王. 次傳位于太子<帶素>, 至<地皇>三年壬午, <高麗>王<無恤>伐之, 殺王<帶素>, 國除.
 

14. 高句麗

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<高句麗>卽<卒本扶餘>也. 或云今<和州>又<成州>等, 皆誤矣. <卒本州>在<遼東>界.《國史‧高麗本記》云: 「始祖<東明聖帝>, 姓<高>氏, 諱<朱蒙>. 先是, <北扶餘>王<解夫婁>, 旣避地于<東扶餘>, 及<夫婁>薨, <金蛙>嗣位. 于時, 得一女子於<太伯山>南<優渤水>, 問之, 云「我是<河伯>之女, 名<柳花>, 與諸弟出遊, 時有一男子, 自言天帝子<解慕漱>, 誘我於<熊神山>下<鴨淥>邊室中私之, 而往不返(《壇君記》云: 「君與<西河><河伯>之女要親, 有産子, 名曰<夫婁>」. 今按此記, 則<解慕漱>私<河伯>之女而後産<朱蒙>,《壇君記》云「産子名曰<夫婁>」, <夫婁>與<朱蒙>異母兄弟也), 父母責我無媒而從人, 遂謫居于此.」 <金蛙>異之, 幽閉於室中, 爲日光所照, 引身避之, 日影又逐而照之, 因而有孕. 生一卵, 大五升許, 王弃之與犬猪, 皆不食, 又弃之路, 牛馬避之, 弃之野, 鳥獸覆之. 王欲剖之, 而不能破, 乃還其母. 母以物裹之, 置於暖處, 有一兒破殼而出, 骨表英奇. 年甫七歲, 岐嶷異常, 自作弓矢, 百發百中, 國俗謂善射爲「朱蒙」, 故以名焉. <金蛙>有七子, 常與<朱蒙>遊戱, 技能莫及. 長子<帶素>言於王曰: 「<朱蒙>非人所生, 若不早圖, 恐有後患.」 王不聽, 使之養馬, <朱蒙>知其駿者, 减食令瘦, 駑者善養令肥, 王自乘肥, 瘦者給<蒙>. 王之諸子與諸臣將謀害之, <蒙>母知之, 告曰: 「國人將害汝, 以汝才畧, 何往不可? 宜速圖之.」 於時, <蒙>與<烏伊>等三人爲友, 行至<淹水>(今未詳), 告水曰: 「我是天帝子‧<河伯>孫, 今日逃遁, 追者垂及, 奈何?」 於是, 魚鼈成橋, 得渡而橋解, 追騎不得渡. 至<卒本州>(<玄菟郡>之界), 遂都焉. 未遑作宮室, 但結廬於<沸流水>上居之, 國號<高句麗>, 因以<高>爲氏.(本姓<解>也. 今自言是天帝子承日光而生, 故自以<高>爲氏.) 時年十二歲, <漢><孝元帝><建昭>二年甲申歲, 卽位稱王. <高麗>全盛之日, 二十一萬五百八戶.《珠琳傳》第二十一卷載, 昔<寧禀離王>侍婢有娠, 相者占之曰: 「貴而當王.」 王曰: 「非我之胤也, 當殺之.」 婢曰: 「氣從天來, 故我有娠.」 及子之産, 謂爲不祥, 捐圈則猪噓, 棄欄則馬乳而得不死. 卒爲<扶餘>之王.(卽<東明帝>爲<卒本扶餘>王之謂也. 此<卒本扶餘>, 亦是<北扶餘>之別都, 故云<扶餘王>也. <寧禀離>乃<夫婁王>之異稱也.)
 

15. 卞韓 百濟

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卞韓 百濟(亦云, <南扶餘>, 卽<泗泚城>也.)
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<新羅>始祖<赫居世>卽位十九年壬午, <卞韓>人以國來降.《新‧舊唐書》云「<卞韓>苗裔在<樂浪>之地」,《後漢書》云「<卞韓>在南, <馬韓>在西, <辰韓>在東」, <致遠>云「<卞韓>, <百濟>也」. 按《本紀》, <溫祚>之起, 在<鴻嘉>四年甲辰, 卽後於<赫居世>‧<東明>之世四十餘年. 而《唐書》云「<卞韓>苗裔在<樂浪>之地」云者, 謂<溫祚>之系, 出自<東明>故云耳. 或有人出<樂浪>之地, 立國於<卞韓>, 與<馬韓>等並峙者, 在<溫祚>之前爾, 非所都在<樂浪>之北也. 或者濫<九龍山>亦名<卞那山>, 故以<高句麗>爲<卞韓>者, 蓋謬. 當以古賢之說爲是. <百濟>地自有<卞山>, 故云<卞韓>, <百濟>全盛之時, 十五萬二千三百戶.
 

16. 辰韓

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辰韓(亦作<秦韓>)
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《後漢書》云: 「<辰韓>耆老自言, <秦>之亡人來適<韓國>, 而<馬韓>割東界地以與之. 相呼爲徒, 有似<秦>語, 故或名之爲<秦韓>. 有十二小國, 各萬戶, 稱國. 又<崔致遠>云: 「<辰韓>本<燕>人避之者, 故取<涿水>之名, 稱所居之邑里, 云<沙涿>‧<漸涿>等.(<羅>人方言, 讀「涿」音爲「道」. 故今或作「沙梁」, 「梁」亦讀「道」.) <新羅>全盛之時, 京中十七萬八千九百三十六戶, 一千三百六十坊, 五十五里, 三十五金入宅(言富潤大宅也); <南宅>, <北宅>, <亐比所宅>, <本彼宅>, <梁宅>, <池上宅>(<本彼部>), <財買井宅>(<庾信>公祖宗), <北維宅>, <南維宅>(<反香寺>下坊), <隊宅>, <賓支宅>(<反香寺>北), <長沙宅>, <上櫻宅>, <下櫻宅>, <水望宅>, <泉宅>, <楊上宅>(梁南), <漢歧宅>(<法流寺>南), <鼻穴宅>(上同), <板積宅>(<芬皇寺>上坊), <別敎宅>(川北), <衙南宅>, <金楊宗宅>(<梁官寺>南), <曲水宅>(川北), <柳也宅>, <寺下宅>, <沙梁宅>, <非上宅>, <里南宅>(<亐所宅>), <思內曲宅>, <池宅>, <寺上宅>(<大宿宅>), <林上宅>(<靑龍之寺>東方有池), <橋南宅>, <巷叱宅>(<本彼部>), <樓上宅>, <里上宅>, <椧南宅>, <井下宅>.
 

17. 又四節遊宅

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春, <東野宅>; 夏, <谷良宅>; 秋, <仇知宅>; 冬, <加伊宅>. 第四十九<憲康大王>代, 城中無一草屋, 接角連墻, 歌吹滿路, 晝夜不絶.
 

18. 新羅始祖 赫居世王

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<辰韓>之地, 古有六村; 一曰<閼川><楊山村>, 南今<曇嚴寺>, 長曰<謁平>, 初降于<瓢嵓峰>, 是爲<及梁部><李>氏祖(<弩禮王>九年置, 名<及梁部>, 本朝<太祖><天福>五年庚子, 改名<中興部>, <波潛>‧<東山>‧<彼上>‧<東村>屬焉); 二曰<突山><高墟村>, 長曰<蘇伐都利>, 初降于<兄山>, 是爲<沙梁部>(「梁」讀云「道」, 或作「涿」, 亦音「道」)<鄭>氏祖, 今曰<南山部>, <仇良伐>‧<麻等烏>‧<道北>‧<廻德>等南村屬焉(稱「今曰」者, <太祖>所置也, 下例知); 三曰<茂山><大樹村>, 長曰<俱(一作仇)禮馬>, 初降于<伊山>(一作<皆比山>), 是爲<漸梁(一作涿)部>又<牟梁部><孫>氏之祖, 今云<長福部>, <朴谷村>等西村屬焉; 四曰<觜山><珍支村>(一作<賓之>, 又<賓子>, 又<氷之>), 長曰<智伯虎>, 初降于<花山>, 是爲<本彼部><崔>氏祖, 今曰<通仙部>, <柴巴>等東南村屬焉, <致遠>乃<本彼部>人也, 今<皇龍寺>南<味呑寺>南有古墟, 云是<崔侯>古宅也, 殆明矣; 五曰<金山><加里村>(今<金剛山><栢栗寺>之北山也), 長曰<祗沱>(一作<只他>), 初降于<明活山>, 是爲<漢歧部>又作<韓歧部><裵>氏祖, 今云<加德部>, 上下<西知乃兒>等東村屬焉; 六曰<明活山><高耶村>, 長曰<虎珍>, 初降于<金剛山>, 是爲<習比部><薛>氏祖, 今<臨川部>, <勿伊村>‧<仍仇旀村>‧<闕谷>(一作<葛谷>)等東北村屬焉. 按上文, 此六部之祖, 似皆從天而降. <弩禮王>九年始改六部名, 又賜六姓. 今俗<中興部>爲母, <長福部>爲父, <臨川部>爲子, <加德部>爲女, 其實未詳. <前漢><地節>元年壬子(古本云<建虎>元年, 又云<建元>三年等, 皆誤)三月朔, 六部祖各率子弟, 俱會於<閼川>岸上, 議曰: 「我輩上無君主臨理蒸民, 民皆放逸, 自從所欲, 盍覓有德人, 爲之君主, 立邦設都乎!」 於時, 乘高南望, <楊山>下<蘿井>傍, 異氣如電光垂地, 有一白馬跪拜之狀. 尋撿之, 有一紫卵(一云靑大卵), 馬見人長嘶上天, 剖其卵得童男, 形儀端美. 驚異之, 浴於<東泉>(<東泉寺>在<詞腦野>北), 身生光彩, 鳥獸率舞, 天地振動, 日月淸明, 因名<赫居世王>(蓋鄕言也. 或作<弗矩內王>, 言光明理世也. 說者云, 是<西述聖母>之所誕也. 故中華人讚<仙桃聖母>, 有「娠賢肇邦」之語, 是也. 乃至雞龍現瑞産<閼英>, 又焉知非<西述聖母>之所現耶!) 位號曰<居瑟邯>(或作<居西干>, 初開口之時, 自稱云「閼智居西干」一起, 因其言稱之. 自後爲王者之尊稱), 時人爭賀曰: 「今天子已降, 宜覓有德女君配之.」 是日, <沙梁里><閼英井>(一作<娥利英井>)邊, 有雞龍現而左脇誕生童女(一云龍現死, 而剖其腹得之), 姿容殊麗, 然而唇似雞觜, 將浴於<月城>北川, 其觜撥落, 因名其川曰<撥川>. 營宮室於<南山>西麓(今<昌林寺>), 奉養二聖兒. 男以卵生, 卵如瓠, 鄕人以瓠爲「朴」, 故因姓<朴>; 女以所出井名名之. 二聖年至十三歲, 以<五鳳>元年甲子, 男立爲王, 仍以女爲后, 國號<徐羅伐>, 又<徐伐>(今俗訓京字云「徐伐」, 以此故也). 或云<斯羅>, 又<斯盧>, 初王生於<雞井>, 故或云<雞林國>以其雞龍現瑞也. 一說, <脫解王>時得<金閼智>而雞鳴於林中, 乃改國號爲<雞林>, 後世遂定<新羅>之號. 理國六十一年, 王升于天, 七日後, 遺體散落于地, 后亦云亡. 國人欲合而葬之, 有大蛇逐禁, 各葬五體爲五陵, 亦名<蛇陵>, <曇嚴寺>北陵是也. 太子<南解王>繼位.
 

19. 第二南解王

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<南解居西干>, 亦云「次次雄」, 是尊長之稱, 唯此王稱之. 父<赫居世>, 母<閼英夫人>, 妃<雲帝夫人>(一作<雲梯>, 今<迎日縣>西有<雲梯山聖母>, 祈旱有應), <前漢><平帝><元始>四年甲子卽位, 御理二十一年, 以<地皇>四年甲申崩, 此王乃<三皇>之弟一云. 按《三國史》云: 「<新羅>稱王曰「居西干」, <辰>言「王」也, 或云, 呼貴人之稱. 或曰「次次雄」, 或作「慈充」. <金大問>云: 『「次次雄」方言謂巫也. 世人以巫事鬼神尙祭祀, 故畏敬之, 遂稱尊長者爲「慈充」, 或云「尼師今」, 言謂「齒理」也.』 初, <南解王>薨, 子<弩禮>讓位於<脫解>, <解>云: 「吾聞聖智人多齒, 乃試以餅噬之.」 古傳如此. 或曰「麻立干」(立一作袖), <金大問>云: 「「麻立」者, 方言謂橛也. 橛標准位而置, 則王橛爲主, 臣橛列於下, 因以名之.」 史論曰: 「<新羅>稱「居西干」‧「次次雄」者一, 「尼師今」者十六, 「麻立干」者四. <羅>末名儒<崔致遠>作《帝王年代曆》, 皆稱某「王」, 不言「居西干」等, 豈以其言鄙野不足稱之也. 今記<新羅>事, 具存方言亦宜矣. <羅>人凡追封者稱葛文王, 未詳.」 此王代<樂浪國>人來侵<金城>, 不克而還. 又<天鳳>五年戊寅, <高麗>之裨屬七國來投.」와, 진짜 헷깔리네! 무슨 좋은 표시방법 없나?
 

20. 第三弩禮王

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<朴弩禮尼叱今>(一作<儒禮王>). 初, 王與妹夫<脫解>讓位, <脫解>云: 「凡有德者多齒, 宜以齒理試之.」 乃咬餅驗之, 王齒多故先立, 因名「尼叱今」, 「尼叱今」之稱, 自此王始. <劉聖公><更始>元年癸未卽位(《年表》云, 甲申卽位), 改定六部號, 仍賜六姓, 始作《兜率歌》, 有嗟辭‧詞腦格. 製犂耜及藏氷庫, 作車乘. <建虎>十八年, 伐<伊西國>滅之, 是年<高麗>兵來侵.
 

21. 第四脫解王

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<脫解齒叱今>(一作<吐解尼師今>). <南解王>時(古本云壬寅年至者, 謬矣. 近則, 後於<弩禮>卽位之初, 無爭讓之事; 前則, 在於<赫居>之世, 故知壬寅非也), <駕洛國>海中有船來泊, 其國<首露王>, 與臣民鼓譟而迎, 將欲留之, 而舡乃飛走. 至於<雞林>東<下西知村><阿珍浦>(今有<上西知>‧<下西知>村名). 時, 浦邊有一嫗, 名<阿珍義先>, 乃<赫居王>之海尺之母. 望之謂曰: 「此海中元無石嵓, 何因鵲集而鳴?」 拏舡尋之, 鵲集一舡上, 舡中有一櫃子, 長二十尺, 廣十三尺. 曳其船, 置於一樹林下, 而未知凶乎吉乎, 向天而誓爾, 俄而乃開見, 有端正男子, 幷七寶‧奴婢滿載其中. 供給七日, 迺言曰: 「我本<龍城國>人(亦云<正明國>, 或云<琓夏國>, <琓夏>或作<花厦國>, <龍城>在<倭>東北一千里), 我國嘗有二十八龍王, 從人胎而生, 自五歲六歲繼登王位, 敎萬民修正性命, 而有八品姓骨, 然無揀擇, 皆登大位. 時, 我父王<含達婆>, 娉<積女國>王女爲妃, 久無子胤, 禱祀求息, 七年後産一大卵. 於是, 大王會問群臣: 『人而生卵, 古今未有, 殆非吉祥.』 乃造櫃置我, 幷七寶‧奴婢載於舡中, 浮海而祝曰: 『任到有緣之地, 立國成家.』 便有赤龍, 護舡而至此矣.」 言訖, 其童子曳杖率二奴, 登<吐含山>上作石塚, 留七日. 望城中可居之地, 見一峰如三日月, 勢可久之地, 乃下尋之, 卽<瓠公>宅也. 乃設詭計, 潛埋礪炭於其側, 詰朝至門云: 「此是吾祖代家屋.」 <瓠公>云「否」, 爭訟不決, 乃告于官. 官曰: 「以何驗是汝家?」 童曰: 「我本冶匠, 乍出隣鄕, 而人取居之. 請掘地撿看.」 從之, 果得礪炭, 乃取而居爲. 時, <南解王>知<脫解>是智人, 以長公主妻之, 是爲<阿尼夫人>. 一日, <吐解>登<東岳>, 廻程次, 令白衣索水飮之, 白衣汲水, 中路先嘗而進, 其角盃貼於口不解. 因而嘖之, 白衣誓曰: 「爾後若近遙, 不敢先嘗.」 然後乃解. 自此白衣讋服, 不敢欺罔. 今<東岳>中有一井, 俗云<遙乃井>是也. 及<弩禮王>崩, 以<光虎帝><中元>二年丁巳六月, 乃登王位. 以「昔是吾家」取他人家故, 因姓<昔>氏. 或云, 因鵲開櫃, 故去鳥字, 姓<昔>氏, 解櫃脫卵而生, 故因名<脫解>. 在位二十三年, <建初>四年己卯崩, 葬<䟽川>丘中. 後有神詔「愼埋葬我骨」. 其髑髏周三尺二寸, 身骨長九尺七寸, 齒凝如一, 骨節皆連瑣, 所謂天下無敵力士之骨. 碎爲塑像, 安闕內. 神又報云「我骨置於<東岳>」, 故令安之.(一云, 崩後二十七世<文虎王>代, <調露>二年庚辰三月十五日辛酉, 夜見夢於<太宗>, 有老人貌甚威猛, 曰: 「我是<脫解>也. 拔我骨於<䟽川>丘, 塑像安於<土含山>.」 王從其言, 故至今國祀不絶, 卽<東岳神>也云.)
 

22. 金閼智 脫解王代

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<永平>三年庚申(一云<中元>六年, 誤矣. <中元>盡二年而已)八月四日, <瓠公>夜行月城西里, 見大光明於<始林>中(一作<鳩林>), 有紫雲從天垂地, 雲中有黃金櫃, 掛於樹枝, 光自櫃出, 亦有白雞鳴於樹下. 以狀聞於王, 駕幸其林, 開櫃有童男, 臥而卽起, 如<赫居世>之故事. 故因其言, 以「閼智」名之, 「閼智」卽鄕言小兒之稱也. 抱載還闕, 鳥獸相隨, 喜躍蹌蹌. 王擇吉日, 冊位太子, 後讓於<婆娑>, 不卽王位. 因金櫃而出, 乃姓<金>氏. <閼智>生<熱漢>, <漢>生<阿都>, <都>生<首留>, <留>生<郁部>, <部>生<俱道>(一作<仇刀>), <道>生<未鄒>, <鄒>卽王位, <新羅><金>氏自<閼智>始.
 

23. 延烏郎 細烏女

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第八<阿達羅王>卽位四年丁酉, 東海濱有<延烏郎>‧<細烏女>, 夫婦而居. 一日, <延烏>歸海採藻, 忽有一巖(一云一魚), 負歸<日本>, 國人見之曰「此非常人也」, 乃立爲王.(按《日本帝記》, 前後無<新羅>人爲王者, 此乃邊邑小王而非眞王也.) <細烏>怪夫不來, 歸尋之, 見夫脫鞋, 亦上其巖, 巖亦負歸如前. 其國人驚訝, 奏獻於王, 夫婦相會, 立爲貴妃. 是時, <新羅>日月無光, 日者奏云: 「日月之精, 降在我國, 今去<日本>, 故致斯怪.」 王遣使求二人, <延烏>曰: 「我到此國, 天使然也, 今何歸乎? 雖然朕之妃有所織細綃, 以此祭天可矣.」 仍賜其綃. 使人來奏, 依其言而祭之, 然後日月如舊. 藏其綃於御庫爲國寶, 名其庫爲<貴妃庫>. 祭天所名<迎日縣>, 又<都祈野>.
 

24. 未鄒王 竹葉軍

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第十三<未鄒尼叱今>(一作<未祖>, 又<未古>), <金閼智>七世孫. 赫世紫纓, 仍有聖德, 受禪于<理解>, 始登王位(今俗稱王之陵爲始祖堂, 蓋以<金>氏始登王位故. 後代<金>氏諸王皆以<未鄒>爲始祖宜矣), 在位二十三年而崩, 陵在<興輪寺>東. 第十四<儒理王>代, <伊西國>人來攻<金城>, 我大擧防禦, 久不能抗, 忽有異兵來助, 皆珥竹葉, 與我軍幷力擊賊破之. 軍退後不知所歸, 但見竹葉積於<未鄒>陵前, 乃知先王陰隲有功. 因呼<竹現陵>. 越三十七世<惠恭王>代, <大曆>十四年己未四月, 忽有旋風, 從<庾信公>塚起, 中有一人乘駿馬如將軍儀狀, 亦有衣甲器仗者四十許人, 隨從而來, 入於<竹現陵>. 俄而陵中似有振動哭泣聲, 或如告訴之音. 其言曰: 「臣平生有輔時救難匡合之功, 今爲魂魄, 鎭護邦國, 攘災救患之心, 暫無渝改, 往者庚戌年, 臣之子孫無罪被誅, 君臣不念我之功烈, 臣欲遠移他所, 不復勞勤, 願王允之.」 王答曰: 「惟我與公不護此邦, 其如民庶何? 公復努力如前.」 三請三不許, 旋風乃還. 王聞之懼, 乃遣工臣<金敬信>, 就<金公>陵謝過焉, 爲公立功德寶田三十結于<鷲仙寺>, 以資冥福. 寺乃<金公>討<平壤>後, 植福所置故也. 非<未鄒>之靈, 無以遏<金公>之怒, 王之護國, 不爲不大矣. 是以, 邦人懷德, 與<三山>同祀而不墜, 躋秩于<五陵>之上, 稱大廟云.
 

25. 奈勿王 金堤上

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奈勿王(一作那密王) 金堤上
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第十七<那密王>卽位三十六年庚寅, <倭>王遣使來朝曰: 「寡君聞大王之神聖, 使臣等以告<百濟>之罪於大王也. 願大王遣一王子, 表誠心於寡君也.」 於是, 王使第三子<美海>(一作<未吐喜>)以聘於<倭>. <美海>年十歲, 言辭動止猶未備具, 故以內臣<朴娑覽>爲副使而遣之, <倭>王留而不送三十年. 至<訥祗王>卽位三年己未, <句麗><長壽王>遣使來朝云: 「寡君聞大王之弟<寶海>秀智才藝, 願與相親, 特遣小臣懇請.」 王聞之幸甚, 因此和通, 命其弟<寶海>, 道於<句麗>, 以內臣<金武謁>爲輔而送之, <長壽王>又留而不送. 至十年乙丑, 王召集群臣及國中豪俠, 親賜御宴, 進酒三行, 衆樂初作, 王垂涕而謂群臣曰: 「昔我聖考, 誠心民事, 故使愛子東聘於<倭>, 不見而崩. 又朕卽位已來, 隣兵甚熾, 戰爭不息, <句麗>獨有結親之言, 朕信其言, 以其親弟聘於<句麗>, <句麗>亦留而不送. 朕雖處富貴, 而未嘗一日暫忘而不哭. 若得見二弟, 共謝於先主之廟, 則能報恩於國人, 誰能成其謀策?」 時, 百官咸奏曰: 「此事固非易也, 必有智勇方可. 臣等以爲<歃羅郡>太守<堤上>可也.」 於是, 王召問焉. <堤上>再拜對曰: 「臣聞, 主憂臣辱, 主辱臣死; 若論難易而後行, 謂之不忠; 圖死生而後動, 謂之無勇. 臣雖不肖, 願受命行矣.」 王甚嘉之, 分觴而飮, 握手而別. 堤上簾前受命, 徑趨北海之路, 變服入<句麗>. 進於<寶海>所, 共謀逸期, 先以五月十五日, 歸泊於<高城>水口而待. 期日將至, <寶海>稱病, 數日不朝, 乃夜中逃出, 行到<高城>海濱. 王知之, 使數十人追之, 至<高城>而及之. 然<寶海>在<句麗>, 常施恩於左右, 故其軍士憫傷之, 皆拔箭鏃而射之, 遂免而歸. 王旣見<寶海>, 益思<美海>, 一欣一悲, 垂淚而謂左右曰: 「如一身有一臂一面一眼, 雖得一而亡一, 何敢不痛乎?」 時, <堤上>聞此言, 再拜辭朝而騎馬, 不入家而行, 直至於<栗浦>之濱. 其妻聞之, 走馬追至<栗浦>, 見其夫已在舡上矣. 妻呼之切懇, <堤上>但搖手而不駐. 行至<倭國>, 詐言曰: 「<雞林>王以不罪殺我父兄, 故逃來至此矣.」 <倭>王信之, 賜室家而安之. 時, <堤上>常陪<美海>遊海濱, 逐捕魚鳥, 以其所獲, 每獻於<倭>王, 王甚喜之而無疑焉. 適曉霧濛晦, <堤上>曰: 「可行矣.」 <美海>曰: 「然則偕行.」 <堤上>曰: 「臣若行, 恐<倭>人覺而追之, 願臣留而止其追也.」 <美海>曰: 「今我與汝如父兄焉, 何得棄汝而獨歸?」 <堤上>曰: 「臣能救公之命, 而慰大王之情則足矣, 何願生乎!」 取酒獻<美海>. 時, <雞林>人<康仇麗>在<倭國>, 以其人從而送之. <堤上>入<美海>房, 至於明旦, 左右欲入見之, <堤上>出止之曰: 「昨日馳走於捕獵, 病甚未起.」 及乎日昃, 左右怪之而更問焉, 對曰: 「<美海>行已久矣.」 左右奔告於王, 王使騎兵逐之, 不及. 於是, 囚<堤上>問曰: 「汝何竊遣汝國王子耶?」 對曰: 「臣是<雞林>之臣, 非<倭國>之臣. 今欲成吾君之志耳, 何敢言於君乎?」 <倭>王怒曰: 「今汝已爲我臣, 而言<雞林>之臣, 則必具五刑, 若言<倭國>之臣者, 必賞重祿.」 對曰: 「寧爲<雞林>之犬㹠, 不爲<倭國>之臣子, 寧受<雞林>之箠楚, 不受<倭國>之爵祿.」 王怒, 命屠剝<堤上>脚下之皮, 刈蒹葭使趨其上.(今蒹葭上有血痕, 俗云<堤上>之血.) 更問曰「汝何國臣乎?」, 曰「<雞林>之臣也」. 又使立於熱鐵上, 問「何國之臣乎?」, 曰「<雞林>之臣也」. <倭>王知不可屈, 燒殺於<木島>中. <美海>渡海而來, 使<康仇麗>先告於國中, 王驚喜, 命百官迎於<屈歇驛>, 王與親弟<寶海>迎於南郊, 入闕設宴, 大赦國內, 冊其妻爲<國大夫人>, 以其女子爲<美海公>夫人. 議者曰: 「昔<漢>臣<周苛>在<滎陽>, 爲<楚>兵所虜, <項羽>謂<周苛>曰『汝爲我臣, 封爲萬祿侯』, <周苛>罵而不屈, 爲<楚王>所殺. <堤上>之忠烈, 無怪於<周苛>矣.」 初, <堤上>之發去也, 夫人聞之追不及, 及至<望德寺>門南沙上, 放臥長號, 因名其沙曰<長沙>. 親戚二人, 扶腋將還, 夫人舒脚坐不起, 名其地曰<伐知旨>. 久後夫人不勝其慕, 率三娘子上<鵄述嶺>, 望<倭國>痛哭而終, 仍爲<鵄述神母>, 今祠堂存焉.
 

26. 第十八實聖王

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<義熙>九年癸丑, <平壤州>大橋成.(恐<南平壤>也, 今<楊州>.) 王忌憚前王太子<訥祗>有德望, 將害之, 請<高麗>兵而詐迎<訥祗>, <高麗>人見<訥祗>有賢行, 乃倒戈而殺王, 乃立<訥祗>爲王而去.
 

27. 射琴匣

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第二十一<毗處王>(一作<炤智王>)卽位十年戊辰, 幸於<天泉亭>, 時有烏與鼠來鳴. 鼠作人語云: 「此烏去處尋之.」(或云, <神德王>欲行香<興輪寺>, 路見衆鼠含尾, 怪之而還占之, 明日先鳴鳥尋之云云, 此說非也.) 王命騎士追之, 南至<避村>(今<壤避寺村>在<南山>東麓), 兩豬相鬪, 留連見之, 忽失烏所在. 徘徊路傍, 時有老翁自池中出奉書, 外面題云「開見二人死, 不開一人死」. 使來獻之, 王曰: 「與其二人死, 莫若不開, 但一人死耳.」 日官秦云: 「二人者庶民也, 一人者王也.」 王然之開見, 書中云「射琴匣」. 王入宮見琴匣射之, 乃內殿焚修僧與宮主潛通而所奸也, 二人伏誅. 自爾國俗每正月上亥上子上午等日, 忌愼百事, 不敢動作, 以十五日爲烏忌之日, 以糯飯祭之, 至今行之. 俚言「怛忉」, 言悲愁而禁忌百事也. 命其池曰<書出池>.
 

28. 智哲老王

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第二十二<智哲老王>, 姓<金>氏, 名<智大路>, 又<智度路>, 諡曰<智證>, 諡號始于此. 又鄕稱王爲「麻立干」者, 自此王始. 王以<永元>二年庚辰卽位.(或云辛巳則三年也.) 王陰長一尺五寸, 難於嘉耦, 發使三道求之, 使至<牟梁部><冬老樹>下, 見二狗嚙一屎塊如鼓大, 爭嚙其兩端. 訪於里人, 有一小女告云: 「此部相公之女子洗澣于此, 隱林而所遺也.」 尋其家檢之, 身長七尺五寸. 具事奏聞, 王遣車邀入宮中, 封爲皇后, 群臣皆賀. 又<阿瑟羅州>(今<溟州>)東海中, 便風二日程有<于陵島>(今作<羽陵>), 周廻二萬六千七百三十步, 島夷恃其水深, 驕傲不臣, 王命伊喰<朴伊宗>將兵討之, <宗>作木偶師子, 載於大艦之上, 威之云「不降則放此獸」, 島夷畏降. 賞<伊宗>爲州伯.
 

29. 眞興王

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第二十四<眞興王>, 卽位時年十五歲, 太后攝政. 太后乃<法興王>之女子‧<立宗>葛文王之妃, 終時削髮被法衣而逝. <承聖>三年九月, <百濟>兵來侵於<珍城>, 掠取人男女三萬九千, 馬八千匹而去. 先是, <百濟>欲與<新羅>合兵謀伐<高麗>, <眞興>曰: 「國之興亡在天, 若天未厭<高麗>, 則我何敢望焉?」 乃以此言通<高麗>, <高麗>感其言, 與<羅>通好, 而<百濟>怨之, 故來爾.
 

30. 桃花女 鼻荊郞

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第二十五<舍輪王>, 諡<眞智大王>, 姓<金>氏, 妃<起烏公>之女‧<知刀夫人>. <大建>八年丙申卽位(古本云, 十一年己亥, 誤矣), 御國四年, 政亂荒媱, 國人廢之. 前此, <沙梁部>之庶女, 姿容艶美, 時號<桃花娘>. 王聞而召致宮中, 欲幸之, 女曰: 「女之所守, 不事二夫. 有夫而適他, 雖萬乘之威, 終不奪也.」 王曰: 「殺之何?」 女曰: 「寧斬于市, 有願靡他.」 王戱曰: 「無則可乎?」 曰: 「可.」 王放而遣之. 是年, 王見廢而崩. 後三年, 其夫亦死. 浹旬忽夜中, 王如平昔, 來於女房曰: 「汝昔有諾, 今無汝夫可乎?」 女不輕諾, 告於父母, 父母曰: 「君王之敎, 何以避之.」 以其女入於房, 留御七日, 常有五色雲覆屋, 香氣滿室, 七日後忽然無蹤. 女因而有娠, 月滿將産, 天地振動, 産得一男, 名曰<鼻荊>. <眞平大王>聞其殊異, 收養宮中. 年至十五, 授差執事, 每夜逃去遠遊, 王使勇士五十人守之, 每飛過<月城>, 西去<荒川>岸上(在京城西), 率鬼衆遊. 勇士伏林中窺伺, 鬼衆聞諸寺曉鐘各散, 郞亦歸矣. 軍士以事奏, 王召<鼻荊>曰: 「汝領鬼遊, 信乎?」 郞曰: 「然.」 王曰: 「然則, 汝使鬼衆, 成橋於<神元寺>北渠.」(一作<神衆寺>, 誤. 一云<荒川>東深渠) <荊>奉勑, 使其徒鍊石, 成大橋於一夜, 故名<鬼橋>. 王又問: 「鬼衆之中, 有出現人間‧輔朝政者乎?」 曰: 「有<吉達>者, 可輔國政.」 王曰: 「與來.」 翌日<荊>與俱見, 賜爵執事, 果忠直無雙. 時, 角干<林宗>無子, 王勅爲嗣子, <林宗>命<吉達>創樓門於<興輪寺>南, 每夜去宿其門上, 故名<吉達門>. 一日<吉達>變狐而遁去, <荊>使鬼捉而殺之. 故其衆聞<鼻荊>之名, 怖畏而走. 時人, 作詞曰: 「聖帝魂生子, <鼻荊郞>室亭. 飛馳諸鬼衆, 此處莫留停.」 鄕俗帖此詞以辟鬼.
 

31. 天賜玉帶

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天賜玉帶(<淸泰>四年丁酉五月, 正承<金傅>獻鐫金粧玉排方腰帶一條, 長十圍, 鐫銙六十二, 曰「是<眞平王>天賜帶也」, <太祖>受之, 藏之內庫.)
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第二十六<白淨王>, 諡<眞平大王>, <金>氏, <大建>十一年己亥八月卽位. 身長十一尺, 駕幸<內帝釋宮>(亦名<天柱寺>, 王之所創), 踏石梯, 三石並折, 王謂左右曰: 「不動此石, 以示後來.」 卽城中五不動石之一也. 卽位元年, 有天使降於殿庭, 謂王曰: 「上皇命我傳賜玉帶, 王親奉跪受.」 然後其使上天. 凡郊廟大祀皆服之. 後<高麗>王將謀伐<羅>, 乃曰: 「<新羅>有三寶不可犯, 何謂也?」 <皇龍寺><丈六尊像>一, 其寺九層塔二, <眞平王>天賜玉帶三也, 乃止其謀. 讚曰: 雲外天頒玉帶圍, 辟雍龍袞雅相宜. 吾君自此身彌重, 准擬明朝鐵作墀.
 

32. 善德王知幾三事

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第二十七<德曼>(一作万), 諡<善德女大王>, 姓<金>氏, 父<眞平王>. 以<貞觀>六年壬辰卽位, 御國十六年, 凡知幾有三事. 初, <唐><太宗>送畵牧丹三色紅紫白, 以其實三升, 王見畫花曰: 「此花定無香.」 仍命種於庭, 待其開落, 果如其言. 二, 於<靈廟寺><玉門池>, 冬月衆蛙集鳴三四日, 國人怪之, 問於王, 王急命角干<閼川><弼呑>等, 鍊精兵二千人, 速去西郊, 問<女根谷>, 必有賊兵, 掩取殺之. 二角干旣受命, 各率千人問西郊, <富山>下果有<女根谷>, <百濟>兵五百人來藏於彼, 並取殺之. <百濟>將軍<亐召>者, 藏於<南山>嶺石上, 又圍而射之殪. 又有後兵一千三百人來, 亦擊而殺之, 一無孑遺. 三, 王無恙時, 謂羣臣曰: 「朕死於某年某月日, 葬我於<忉利天>中.」 群臣罔知其處, 奏云何所, 王曰: 「<狼山>南也.」 至其月日王果崩, 群臣葬於<狼山>之陽. 後十餘年<文虎大王>創<四天王寺>於王墳之下,《佛經》云, <四天王天>之上有<忉利天>, 乃知大王之靈聖也. 當時, 群臣啓於王曰: 「何知花蛙二事之然乎?」 王曰: 「畫花而無蝶, 知其無香. 斯乃<唐>帝欺寡人之無耦也. 蛙有怒形, 兵士之像, 玉門者女根也. 女爲陰也, 其色白, 白西方也, 故知兵在西方. 男根入於女根則必死矣, 以是知其易捉.」 於是, 群臣皆服其聖智. 送花三色者, 蓋知<新羅>有三女王而然耶? 謂<善德>‧<眞德>‧<眞聖>是也, <唐>帝以有懸解之明. <善德>之創<靈廟寺>, 具載《良志師傳》, 詳之. 別記云, 是王代, 鍊石築<贍星臺>.
 

33. 眞德王

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第二十八<眞德女王>卽位, 自製《太平歌》, 織錦爲紋, 命使往<唐>獻之.(一本「命<春秋公>爲使, 往仍請兵, <太宗>嘉之許, <蘇定方>云云」者, 皆謬矣. <現慶>前, <春秋>已登位, <現慶>庚申非<太宗>, 乃<高宗>之世. <定方>之來, 在<現慶>庚申, 故知織錦爲紋, 非請兵時也. 在<眞德>之世, 當矣. 蓋, 請放<金欽純>之時也.) <唐>帝嘉賞之, 改封爲<雞林國王>. 其詞曰: 「<大唐>開洪業, 巍巍皇猷昌. 止戈戎威定, 修文契百王. 統天崇雨施, 理物體含章. 深仁諧日月, 撫運邁<虞唐>. 幡旗何赫赫, 錚鼓何鍠鍠. 外夷違命者, 剪覆被天殃. 淳風凝幽現, 遐邇競呈祥. 四時和玉燭, 七曜巡萬方. 維嶽降輔宰, 維帝任忠良. 五三成一德, 昭我<唐>家皇.」 王之代有<閼川公>‧<林宗公>‧<述宗公>‧<虎林公>(<慈藏>之父)‧<廉長公>‧<庾信公>, 會于<南山><亐知巖>, 議國事, 時有大虎走入座間, 諸公驚起, 而<閼川公>畧不移動, 談笑自若, 捉虎尾撲於地而殺之. <閼川公>膂力如此, 處於席首, 然諸公皆服<庾信>之威. <新羅>有四靈地, 將議大事, 則大臣必會其地謀之, 則其事必成. 一東曰<靑松山>, 二曰南<亐知山>, 三曰西<皮田>, 四曰北<金剛山>. 是王代始行正旦禮, 始行「侍郞」號.
 

34. 金庾信

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<虎力>伊干之子<舒玄>角干<金>氏之長子曰<庾信>, 弟曰<欽純>, 姊姝曰<寶姬>‧小名<阿海>, 妹曰<文姬>‧小名<阿之>. <庾信公>以<眞平王>十七年乙卯生, 禀精七曜, 故背有七星文, 又多神異. 年至十八壬申, 修劍得術爲國仙. 時有<白石>者, 不知其所自來, 屬於徒中有年. <郞>以伐<麗>‧<濟>之事, 日夜深謀, <白石>知其謀, 告於<郞>曰: 「僕請與<公>密先探於彼, 然後圖之何如?」 <郞>喜, 親率<白石>夜出行, 方憩於峴上, 有二女隨<郞>而行. 至<骨火川>留宿, 又有一女忽然而至, <公>與三娘子喜話之時, 娘等以美菓餽之, <郞>受而啖之, 心諾相許, 乃說其情. 娘等告云: 「<公>之所言已聞命矣, 願<公>謝<白石>而共入林中, 更陳情實.」 乃與俱入, 娘等便現神形曰: 「我等<奈林>‧<穴禮>‧<骨火>等三所護國之神, 今敵國之人誘郞引之, 郞不知而進途, 我欲留郞而至此矣.」 言訖而隱, <公>聞之驚仆, 再拜而出. 宿於<骨火館>, 謂<白石>曰: 「今歸他國, 忘其要文, 請與爾還家取來.」 遂與還至家, 拷縛<白石>而問其情. 曰: 「我本<高麗>人(古本云<百濟>, 誤矣. <楸南>乃<高麗>之士, 又逆行陰陽亦<寶藏王>事), 我國群臣曰, <新羅><庾信>是我國卜筮之士<楸南>也.(古本作<春南>, 誤矣.) 國界有逆流之水(或云雄雌, 尤反覆之事), 使其卜之, 奏曰: 『大王夫人逆行陰陽之道, 其瑞如此.』 大王驚怪. 而王妃大怒, 謂是妖狐之語, 告於王, 更以他事驗問之, 失言則加重刑. 乃以一鼠藏於合中, 問是何物, 其人奏曰: 『是必鼠, 其命有八.』 乃以謂失言, 將加斬罪, 其人誓曰: 『吾死之後, 願爲大將, 必滅<高麗>矣.』 卽斬之. 剖鼠腹視之, 其命有七, 於是知前言有中. 其日夜大王夢, <楸南>入于<新羅><舒玄公>夫人之懷, 以告於群臣, 皆曰: 『<楸南>誓心而死, 是其果然.』 故遣我至此謀之爾.」 公乃刑<白石>, 備百味祀三神, 皆現身受奠. <金>氏宗<財買夫人>死, 葬於<靑淵>上谷, 因名<財買谷>. 每年春月, 一宗士女會宴於其谷之南澗, 于時百卉敷榮, 松花滿洞府林. 谷口架築爲庵, 因名<松花房>, 傳爲願刹. 至五十四<景明王>, 追封公爲<興虎大王>, 陵在<西山><毛只寺>之北, 東向走峯.
 

35. 太宗春秋公

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第二十九<太宗大王>, 名<春秋>, 姓<金>氏, <龍樹>(一作<龍春>)角干‧追封<文興大王>之子也. 妣<眞平大王>之女<天明夫人>, 妃<文明皇后><文姬>, 卽<庾信公>之季妹也. 初<文姬>之姊<寶姬>, 夢登<西岳>捨溺, 瀰滿京城. 旦與妹說夢, <文姬>聞之謂曰「我買此夢」, 姊曰「與何物乎?」, 曰「鬻錦裙可乎?」, 姊曰「諾」, 妹開襟受之, 姊曰「疇昔之夢, 傳付於汝」, 妹以錦裙酬之. 後旬日<庾信>與<春秋公>, 正月午忌日(見上射琴匣事, 乃<崔致遠>之說), 蹴鞠于<庾信>宅前(<羅>人謂蹴鞠爲弄珠之戱), 故踏<春秋>之裙, 裂其襟紐. 請曰「入吾家縫之」, 公從之. <庾信>命<阿海>奉針, <海>曰: 「豈以細事, 輕近貴公子乎?」 因辭.(古本云, 因病不進.) 乃命<阿之>, 公知<庾信>之意, 遂幸之, 自後數數來往. <庾信>知其有娠, 乃嘖之曰: 「爾不告父母而有娠何也?」 乃宣言於國中, 欲焚其妹. 一日, 俟<善德王>遊幸<南山>, 積薪於庭中, 焚火烟起, 王望之問何烟, 左右奏曰: 「殆<庾信>之焚妹也.」 王問其故, 曰: 「爲其妹無夫有娠.」 王曰: 「是誰所爲?」 時<公>昵侍在前, 顔色大變. 王曰: 「是汝所爲也. 速往救之!」 <公>受命馳馬, 傳宣沮之, 自後現行婚禮. <眞德王>薨, 以<永徽>五年甲寅卽位, 御國八年, <龍朔>元年辛酉崩, 壽五十九歲, 葬於<哀公寺>東, 有碑. 王與<庾信>神謀戮力, 一統<三韓>, 有大功於社稷, 故廟號<太宗>. 太子<法敏>‧角干<仁問>‧角干<文王>‧角干<老且>‧角干<智鏡>‧角干<愷元>等, 皆<文姬>之所出也, 當時買夢之徵, 現於此矣. 庶子曰<皆知文>級干‧<車得令公>‧<馬得>阿干幷女五人. 王膳一日飯米三斗‧雄雉九首. 自庚申年滅<百濟>後, 除晝膳, 但朝暮而已, 然計一日米六斗‧酒六斗‧雉十首. 城中市價, 布一疋租三十碩或五十碩, 民謂之聖代. 在東宮時, 欲征<高麗>, 因請兵入<唐>, <唐>帝賞其風彩, 謂爲神聖之人, 固留侍衛, 力請乃還. 時, <百濟>末王<義慈>乃<虎王>之元子也, 雄猛有膽氣, 事親以孝, 友于兄弟, 時號海東<曾子>, 以<貞觀>十五年辛丑卽位, 耽媱酒色, 政荒國危, 佐平(<百濟>爵名)<成忠>極諫不聽, 囚於獄中. 瘐困濱死, 書曰: 「忠臣死不忘君, 願一言而死. 臣嘗觀時變, 必有兵革之事. 凡用兵, 審擇其地, 處上流而迎敵, 可以保全. 若異國兵來, 陸路不使過<炭峴>(一云<沈峴>, <百濟>要害之地), 水軍不使入<伎伐浦>(卽<長嵓>, 又<孫梁>, 一作<只火浦>, 又<白江>), 據其險隘以禦之, 然後可也.」 王不省. <現慶>四年己未, <百濟><烏會寺>(亦云<烏合寺>)有大赤馬, 晝夜六時, 遶寺行道; 二月, 衆狐入<義慈>宮中, 一白狐坐佐平書案上; 四月, 太子宮雌雞與小雀交婚; 五月, <泗泚>(<扶餘>江名)岸大魚出死, 長三丈, 人食之者皆死; 九月, 宮中槐樹鳴如人哭, 夜鬼哭宮南路上. 五年庚申春二月, 王都井水血色, 西海邊小魚出死, 百姓食之不盡, <泗泚>水血色; 四月, 蝦蟆數萬集於樹上, 王都市人無故驚走, 如有捕捉, 驚仆死者百餘, 亡失財物者無數. 六月, <王興寺>僧皆見如舡楫隨大水入寺門; 有大犬如野鹿, 自西至<泗泚>岸, 向王宮吠之, 俄不知所之; 城中群犬集於路上, 或吠或哭, 移時而散; 有一鬼入宮中, 大呼曰「<百濟>亡! <百濟>亡!」, 卽入地, 王怪之, 使人掘地, 深三尺許, 有一龜, 其背有文, (曰)「<百濟>圓月輪, <新羅>如新月」, 問之巫者, 云: 「圓月輪者滿也, 滿則虧; 如新月者未滿也, 未滿則漸盈.」 王怒殺之. 或曰: 「圓月輪盛也, 如新月者微也, 意者國家盛而<新羅>寢微乎.」 王喜. <太宗>聞<百濟>國中多怪變, 五年庚申, 遣使<仁問>請兵<唐>, <高宗>詔左虎衛大將軍<荊國公><蘇定方>爲<神丘道>行策摠管, 率左衛將軍<劉伯英>字<仁遠>‧左虎衛將軍<馮士貴>‧左驍衛將軍<龐孝公>等, 統十三萬兵來征.(鄕記云, 軍十二萬二千七百十一人, 船一千九百隻, 而<唐>史不詳言之.) 以<新羅>王<春秋>爲<嵎夷道>行軍摠管, 將其國兵, 與之合勢. <定方>引兵, 自<城山>濟海, 至國西<德勿島>, <羅>王遣將軍<金庾信>, 領精兵五萬以赴之. <義慈王>聞之, 會群臣問戰守之計, 佐平<義直>進曰: 「<唐>兵遠涉溟海, 不習水, <羅>人恃大國之援, 有輕敵之心, 若見<唐>人失利, 必疑懼而不敢銳進. 故知先與<唐>人決戰可也.」 達率<常永>等曰: 「不然! <唐>兵遠來, 意欲速戰, 其鋒不可當也. <羅>人屢見敗於我軍, 今望我兵勢, 不得不恐. 今日之計, 宜塞<唐>人之路, 以待師老, 先使偏師擊<羅>, 折其銳氣, 然後伺其便而合戰, 則可得全軍而保國矣.」 王猶預不知所從, 時佐平<興首>得罪, 流竄于<古馬旀知>之縣, 遣人問之曰: 「事急矣, 如(之)何?」 <首>曰: 「大槪如佐平<成忠>之說.」 大臣等不信, 曰: 「<興首>在縲絏之中, 怨君而不愛國矣, 其言不可用也. 莫若使<唐>兵入<白江>(卽<伎伐浦>), 沿流而不得方舟; <羅>軍升<炭峴>, 由徑而不得並馬. 當此之時, 縱兵擊之, 如在籠之雞, 罹網之魚也.」 王曰: 「然.」 又聞<唐>‧<羅>兵已過<白江>‧<炭峴>, 遣將軍<偕伯>, 帥死士五千出<黃山>, 與<羅>兵戰, 四合皆勝之, 然兵寡力盡, 竟敗而<偕伯>死之. 進軍合兵, 薄津口, 瀕江屯兵, 忽有鳥廻翔於<定方>營上, 使人卜之, 曰「必傷元帥」, <定方>懼欲引兵而止. <庾信>謂<定方>曰: 「豈可以飛鳥之怪, 違天時也? 應天順人, 伐至不仁, 何不祥之有?」 乃拔神劍擬其鳥, 割裂而墜於座前. 於是, <定方>出左涯, 垂山而陣, 與之戰, <百濟>軍大敗. 王師乘潮, 軸轤含尾, 鼓譟而進, <定方>將步騎, 直趨都城一舍止, 城中悉軍拒之, 又敗死者萬餘. <唐>人乘勝薄城, 王知不免, 嘆曰: 「悔不用<成忠>之言, 以至於此.」 遂與太子<隆>(或作<孝>, 誤也), 走北鄙. <定方>圍其城, 王次子<泰>自立爲王, 率衆固守. 太子之子<文思>謂王<泰>曰: 「王與太子出, 而叔擅爲王, 若<唐>兵解去, 我等安得全?」 率左右縋而出, 民皆從之, <泰>不能止. <定方>令士起堞立<唐>旗幟, <泰>窘迫, 乃開門請命. 於是, 王及太子<隆>‧王子<泰>‧大臣<貞福>, 與諸城皆降. <定方>以王<義慈>及太子<隆>‧王子<泰>‧王子<演>, 及大臣將士八十八人‧百姓一萬二千八百七人送京師. 其國本有五部‧三十七郡‧二百城‧七十六萬戶, 至是析置<熊津>‧<馬韓>‧<東明>‧<金漣>‧<德安>等五都督府, 擢渠長爲都督刺史以理之, 命郞將<劉仁願>守都城, 又左衛郞將<王文度>爲熊津都督, 撫其餘衆. <定方>以所俘見, 上責而宥之. 王病死, 贈金紫光祿大夫衛尉卿, 許舊臣赴臨, 詔葬<孫皓>‧<陳叔寶>墓側, 竝爲竪碑. 七年壬戌, 命<定方>爲<遼東道>行軍大摠管, 俄改<平壤道>, 破<高麗>之衆於<浿江>, 奪<馬邑山>爲營, 遂圍<平壤城>, 會大雪解圍還. 拜<凉州>安集大使, 以定<吐蕃>, <乾封>二年卒, <唐>帝悼之, 贈左驍騎大將軍<幽州>都督, 諡曰<莊>.(已上<唐>史文.) <新羅>別記云: 「<文虎王>卽位五年乙丑秋八月庚子, 王親統大兵, 幸<熊津城>, 會假王<扶餘隆>作壇, 刑白馬而盟, 先祀天神及山川之靈, 然後歃血爲文而盟曰: 『往者, <百濟>先王迷於逆順, 不(敦)隣好, 不睦親姻, 結托<句麗>, 交通<倭國>, 共爲殘暴, 侵削<新羅>, 破邑屠城, 畧無寧歲. 天子憫一物之失所, 憐百姓之被毒, 頻命行人, 諭其和好. 負險恃遠, 侮慢天經, 皇赫斯怒, 恭行吊伐, 旌旗所指, 一戎大定. 固可瀦宮汚宅, 作誡來裔, 塞源拔本, 垂訓後昆, 懷柔伐叛, 先王之令典, 興亡繼絶, 往哲之通規. 事必師古, 傳諸曩冊. 故立前<百濟王>司稼正卿<扶餘隆>爲<熊津>都督, 守其祭祀, 保其桑梓, 依倚<新羅>, 長爲與國, 各除宿憾, 結好和親, 恭承詔命, 永爲藩服. 仍遣使人右威衛將軍<魯城縣公><劉仁願>, 親臨勸諭, 具宣成旨. 約之以婚姻, 申之以盟誓, 刑牲歃血, 共敦終始, 分災恤患, 恩若兄弟. 祗奉綸言, 不敢墜失, 旣盟之後, 共保歲寒. 若有乖背, 二三其德, 興兵動衆, 侵犯邊陲, 神明鑒之, 百殃是降, 子孫不育, 社稷無宗, 禋祀磨滅, 罔有遺餘. 故作金書鐵契, 藏之宗廟, 子孫萬代, 無或敢犯. 神之聽之, 是享是福.』 歃訖埋幣帛於壇之壬地, 藏盟文於大廟, 盟文乃<帶方>都督<劉仁軌>作.(按上<唐>史之文, <定方>以<義慈王>及太子<隆>等送京師, 今云會<扶餘王><隆>, 則知<唐>帝宥隆而遣之, 立爲<熊津>都督也. 故盟文明言, 以此爲驗.) 又古記云: 「<總章>元年戊辰(若<總章>戊辰則<李勣>之事, 而下文<蘇定方>, 誤矣. 若<定方>則年號當<龍朔>二年壬戌, 來圍<平壤>之時也), 國人之所請<唐>兵, 屯于<平壤>郊而通書曰『急輸軍資』. 王會群臣問曰: 『入於敵國至<唐>兵屯所, 其勢危矣. 所請王師粮匱而不輸其料, 亦不宜也. 如何?』 <庾信>奏曰: 『臣等能輸其軍資, 請大王無慮.』 於是, <庾信>‧<仁問>等率數萬人入<句麗>境, 輸料二萬斛乃還, 王大喜. 又欲興師會<唐>兵, <庾信>先遣<然起>‧<兵川>等二人, 問其會期. <唐>帥<蘇定方>紙畫鸞犢二物廻之, 國人未解其意, 使問於<元曉法師>, 解之曰: 『速還其兵, 謂畫犢畫鸞二切也.』 於是, <庾信>廻軍欲渡<浿江>, 令曰後渡者斬之, 軍士爭先半渡, <句麗>兵來掠, 殺其未渡者. 翌日<信>返追<句麗>兵, 捕殺數萬級.」 <百濟>古記云: 「<扶餘城>北角有大岩, 下臨江水, 相傳云, <義慈王>與諸後宮知其未免, 相謂曰: 『寧自盡, 不死於他人手.』 相率至此, 投江而死, 故俗云<墮死岩>.」 斯乃俚諺之訛也. 但宮人之墮死, <義慈>卒於<唐>, <唐>史有明文, 又<新羅>古傳云: 「<定方>旣討<麗>‧<濟>二國, 又謀伐<新羅>而留連. 於是, <庾信>知其謀, 饗<唐>兵鴆之, 皆死坑之. 今<尙州>界有<唐>橋, 是其坑地.」(按<唐>史, 不言其所以死, 但書云「卒」何耶? 爲復諱之耶? 鄕諺之無據耶? 若壬戌年<高麗>之役, <羅>人殺<定方>之師, 則後<總章>戊辰何有請兵滅<高麗>之事. 以此知鄕傳無據. 但戊辰滅<麗>之後, 有不臣之事, 擅有其地而已, 非至殺<蘇>‧<李>二公也.) 王師定<百濟>, 旣還之後, <羅>王命諸將, 追捕<百濟>殘賊, 屯次于<漢山城>, <高麗>‧<靺鞨>二國兵來圍之, 相擊未解, 自五月十一日至六月二十二日, 我兵危甚. 王聞之, 議群臣曰: 「計將何出?」 猶豫未決, <庾信>馳奏曰: 「事急矣. 人力不可及, 唯神術可救.」 乃於<星浮山>設壇修神術, 忽有光耀如大瓮, 從壇上而出, 乃星飛而北去.(因此名<星浮山>. 山名或有別說云, 山在<都林>之南, 秀出一峯是也. 京城有一人謀求官, 命其子作高炬, 夜登此山擧之, 其夜京師人望火, 人皆謂怪星現於其地. 王聞之憂懼, 募人禳之, 其父將應之, 日官奏曰: 「此非大怪也. 但一家子死‧父泣之兆耳.」 遂不行禳法. 是夜, 其子下山, 虎傷而死.) <漢山城>中士卒, 怨救兵不至, 相視哭泣而已. 賊欲攻急, 忽有光耀, 從南天際來, 成霹靂‧擊碎砲石三十餘所, 賊軍弓箭矛戟籌碎皆仆地, 良久乃蘇, 奔潰而歸, 我軍乃還. <太宗>初卽位, 有獻猪一頭二身八足者, 議者曰: 「是必幷呑六合瑞也.」 是王代始服中國衣冠牙笏, 乃法師<慈藏>請<唐>帝而來傳也. <神文王>時, <唐><高宗>遣使<新羅>曰: 「朕之聖考得賢臣<魏徵>‧<李淳風>等, 協心同德, 一統天下, 故爲<太宗皇帝>. 汝<新羅>海外小國, 有<太宗>之號, 以僭天子之名, 義在不忠, 速改其號.」 <新羅王>上表曰: 「<新羅>雖小國, 得聖臣<金庾信>, 一統三國, 故封爲<太宗>.」 帝見表乃思儲貳時, 有天唱空云「三十三天之一人, 降於<新羅>爲<庾信>」, 紀在於書, 出撿視之, 驚懼不已, 更遣使許無改<太宗>之號.
 

36. 長春郎 罷郎

1
長春郎 罷郎(一作羆)
2
初與<百濟>兵戰於<黃山>之役, <長春郎>‧<罷郎>死於陣中. 後討<百濟>時, 見夢於<太宗>曰: 「臣等昔者爲國亡身, 至於白骨, 庶欲完護邦國, 故隨從軍行無怠而已. 然迫於<唐>帥<定方>之威, 逐於人後爾. 願王加我以小勢.」 大王驚怪之, 爲二魂, 說經一日於<牟山亭>, 又爲創<壯義寺>於<漢山州>, 以資冥援.
【 】三國遺事卷第一
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